三浦知良選手がJ2の横浜FCに移籍するそうな。
カズ、横浜FCに移籍へ…日本代表で歴代2位の得点
サッカーJ1神戸の元日本代表FW三浦知良(38)が、J2の横浜FCに完全移籍することが18日、明らかになった。両クラブ間で移籍が合意に達しており、近く発表される。
今月7日、横浜FCから三浦知の獲得オファーが神戸にあった。神戸側が三浦知に伝えたところ、本人から「完全移籍させて欲しい」との返事があったため、両クラブの首脳が17日夜、話し合いを持ち、完全移籍で合意した。(読売新聞)
現役にこだわり続けるカズって凄いなぁ。
彼にまつわる伝説的なものはいくつか耳にした事が有りまして、その真偽の程はともかく彼らしいエピソードです。
その1つの話。
ブラジルのサッカー選手を夢見る孤児たちを育てる 団体に、カズがサッカーボールを送ったことがあった。 それも、200個ものボールを。 子供たちは、とても喜んだ。
しばらくして、やはりJリーグが 同団体にボールを寄付することになった。
エージェントが現地へ赴き、少年たちにボールを渡す。
少年たちはやはり喜んだが、渡されたスポルディング社製のボールを見て
「スポルディングではなくて、メーカーは『カズ』が良かった。」
「『カズ』のボール はとても使いやすかった」 と口々に言う。
Jリーグのエージェントは首をひねった。
カズ?そんなメーカーがあっただろうか。
「これだ」と、手渡されたボロボロのボールを見てエージェントは驚いた。
すでにかすれてしまっているものの、ボールにははっきりとサインペンで 「夢をあきらめるな カズ」 と、現地の言葉で記した跡があった。
200個ものボール全てにカズは自筆のメッセージとサインを入れ、 それを子供たちは「カズ」と いうメーカーのボールであると思い込んでいたのだ。
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上の話は2ちゃんあたりでよくコピペされているものなので本当かどうかは判らない。
が、良いんですよ、カズだから(笑)
ちなみに横浜FC、これでカズと城の2トップになります。
まぁ城はねぇ…
そう言えば野球じゃ野茂さんも解雇だとか。
海外進出の開拓者であるカズ&野茂。
私と歳も近い事も有り、これからも頑張り続けて欲しい訳ですわ。
藤井寺で見た野茂さんはカッコよかったな、うん。
当時、近所に住んでたからよく見に行ったものですわ。
さてカズの勇姿を九州で見られるのは
8月13日(土)鳥栖−横浜FC@鳥栖スタジアム
の予定!
って特番の納品直前やんけ…
おそらく行けんぞな。
でもってカズ山本さんは 今、北九州市に有る子どもの館の館長です。
あ、関係無いって(笑)
で、カズ伝説の続きですが…
ここから先の伝説も掲示板からのコピペなので 本当かどうか判りません。
御了承くださいな。
小さい子供がいるのに見えないのか?
カズが、読売ヴェルディ時代に、 甥っ子連れてサッカー場行った時の事。
カズは当時、絶大な人気だった。(その試合では2得点ゴール)
あれだけ人気なんだから きっと天狗になって調子こんだヤローなんだろうな。と思っていた。
試合が終わり、甥っ子が、どうしてもカズのサイン欲しいと、言うこと聞かず、 近くに居たヴェルディーファンに「どうしたらもらえますか?」と聞いたら チームバスで来ていたら、 それに乗り込む時にもらえるかもしれませんよと教えてもらい、 そこに連れて行ってもらった。
するとカズが現れた。前の方にいた甥っ子と自分は、 周りの黄色い声に、圧倒されてたじろいでいた。 そして甥っ子は、怖くなって色紙とサインペンを持ちながら泣いていた。
そしてカズが、 前を通り過ぎようとしていた。 勇気を振り絞って甥っ子が、色紙とサインペンを一生懸命差し出すも、近くに居た、ギャルっぽい女の子が甥っ子を押しのけて、サインをもらおうとしたその時、
「小さい子供いるのが見えないのか?」
と女の子に言い放ち 自分の甥っ子の頭をなでて、満面の笑顔で「大きいサインあげるから泣かないで」と、 色紙いっぱいにサインしてくれた。
そしてさっきの女の子がサインもらおうと、カズに差し出すも、 カズは無視。バスに乗り 込んでいった まさにKINGこそ漢。
私は、それ以来熱狂的なカズ崇拝者です。
その後甥っ子は中学生になり、サッカー部に入部 。 背番号11FWとして、活躍している。
もんじゃ焼き
キングカズは神だと思っている。 7年ほど前の正月休みに両親と静岡市のカズ実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなりキングカズが 玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わないイタリアンないでたちで。
カズが 「俺いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、 店内にいた高校生集団が「カズさん!」「カズさんかっけー!」などと騒ぎ出し、カズが戻って きてくれて即席サイン会になった。 店内に13,4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使いサインを
してくれた。 高校生達が カズの母校静岡学園のサッカー部だとわかったカズは いい笑顔で会話を交わしていた。
そしてカズは「またな〜」と二階に上がっていき、 店内は静かになった。 私と両親はカズの気さくさとかっこよさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向 かうと、店員さん(カズ妹)が 階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。 あれには本当にびっくりした。
車の故障
去年の暮れぐらいなんだけど、郊外で車故障して、立ち往生してたんだよ。 俺、全然車とか詳しくないんで、ボンネット開けて中見ててもなにが悪いのかさっぱり意味不明 。
で、あたりも暗くなってきてたし車通りも全然ないところでヤベー、とか思ってたら 俺の車 の後ろに一台の車が停車した。
その車から降りてきた男を見て、俺は息を飲んだ。 それは見間違うはずも無い、日本代表の、あのカズ選手だった。「なぜこんな田舎にベージュの スーツで!?」と思うまもなく、カズは 「どうしたの〜?」ときさくに俺に声をかけつつ上着を脱ぐと、ボンネットをのぞきこみ、 そし て、いろいろエンジンのまわりをごそごそやりだした。 高そうな白いシャツの袖が、どんどん汚れていく・・・
結果、俺の車は見事エンジンスタ ートに成功。 カズは「車は普段から可愛がってやらないと、すぐ壊れるよ。じゃあな!」 と言うと、颯爽と自分の車に乗り込み去っていった。
そしてついに今日、カズが日本代表から外れた。
それでも俺は一生、あの日のカズを忘れない。
カズの生い立ち 誕生〜ブラジル渡航〜帰国〜フランス代表落ち
1967年、静岡県静岡市に生まれる。
1973年、静岡市立城内小学校に入学 。城内FCで 本格的にサッカーを始める。さらに静岡市立城内中学校に入学。この頃から横浜銀蝿の もの真似 をするなど目立ちたがり屋であった。
1982年、静岡学園高等学校に入学するも、8ヶ月で中退。15歳で単身ブラジルのプロチーム 「ジュベントス」に留学。
当時のカズは県内でもほとんど評価されず、カズのスピードと 体力ではブラジルどころか県内でも通用しない、という批判の声がほとんどであった。
それでもカズは自分を信じブラジルへと発った。
カズは、他の選手のように一時留学の形でチームに預ってもらうという形をとらなかったため、ブラジルで注目を集め、プロの仲間入りをするには、人並以上の練習で実力をつけ自力で門戸を 開けるしかなかった。
カズは、ひなびたスタジアムで罵声を浴びる毎日を送りながら、 死に物狂いの練習を毎日続け、言葉の壁、習慣の違い、いじめや孤独と戦いながらプロを目指した。 食事やスパイク、ユニフォ-ムを盗られたりもした。下手なプレ-をすれば、日本人は使うな という世間の攻撃も受けた。
1985年の夏、カズは厳しい日々に夢を捨て日本に帰ることを考えた。そして、日本行きの 航空券を買い、 リオの公園に気晴らしに出た。そこでは、20人ほどの子供達が楽しそうにサッカーをやっていた 。 その中には、片足で懸命に汚れたボールを追っている少年がいたのである。
「片足の子だけじゃなく、 裸足の子もいました。じっと子供たちを見ているうちにボクは反省しましたよ。ボクには両足も あれば スパイクも新しいボールもある。いったい、何をぜいたくなことをいってたんだろうと思いまし たね。」(カズ)
飛行機の予約をキャンセルしたカズは、この時から帰国を口にしなくなった。
翌1986年2月、18歳の誕生日の2日前、カズは正式に名門サントスFCと契約した。 日本では華やかに報道され
、現地ブラジルでも新聞にとり上げられ話題には事欠かなかったが、サントスFCでも 厳しい苦渋を味わった。ウイングのポジションには元代表の名選手がいて、そのシーズンは2試合 しか出場できなかった。
そして1年後、サントスFCの外人枠から外れ、弱小チームに貸し出されることになる。そこでの生活は 悲惨なものであった。
「バスで延々23時間かけて地方に遠征し、 試合をして、終わったらまた23時間かけて帰る。夜はバスの通路にクッションを敷いて寝る。食事は 高速道路のインターで同じような肉料理を1日3、4回。それに、ブラジルは広い国だから、暑かったり 寒かったり、1日で気温が10度以上も違うんですからね。」
「でも、ここで負けたら永遠 にオレはダメになると、いつも心のなかでは思っていたんだ。」(カズ)
そののち、「CRB」という田舎チームを経て、1988年サンパウロ州の1部リーグチームではあ るが、ローカルチームの「キンゼ・デ・ジャウー」にスカウトさる。このスカウトが歴史的な ゴールへとつながることになる。
カズはこの試合で、鉄壁の守備を誇る元ブラジル代表のエジソンのマークを外し、ヘディングでゴールを決め、1-0で勝利した。点を取ったのはヘディングだったが、得意のドリブルで何度もコリンチャンスのディフェンダー陣を混乱させた。
カズのフェイン トは ブラジルの超一流チーム相手に十分通用するようになっていたのだ。
ゲームが終わった後 の ジャウーの町は1週間以上も、お祭騒ぎがつづいた。地元ではカズを「神」として崇めた。 その後、パルメイラスの助っ人メンバーとしてキリンカップに出場したり、コリチーパをパラナ 州のチャンピオンにさせたりし、カズは実力をフルに発揮しはじめ、90年に再び サントスFCと正式契約した。
カズ、このとき22歳。今度は超一流の折り紙をつけられ、堂々と胸 を張っての契約だった。
1990年7月、カズは帰国し「読売サッカークラブ」と契約する。ブラジルでの最後の2年間は、カズは評価も高く人気選手であり、名門「サントスFC」とも契約し、まだこれからという時での帰国であった。
ブラジルでの成功を捨ててなぜ日本に帰ってきたのか、残念がるファンも多かった。
当時日本のサッカー界には、プロリーグの構想が持ち上がっており、カズは、その構想に引かれ日本に帰ることを決意したのだ。カズは、ブラジルで人気選手としてサッカーを続けることより 、 日本のサッカーのレベルを上げ、日本代表チームの一員としてワールドカップ出場を目指すこと を 選択したのだ。
1993年にはプロサッカーリーグ・Jリーグが開幕し、また日本代表チームは、ワールドカップ・ アメリカ大会出場まであと一歩というところまで迫る。日本サッカーは、人気実力ともに上昇していった。
これらの功績はカズなしではとても成し遂げられるものではなかった。
日本のサッカーが軌道に乗ると、再び自らのもう一つの夢を追いかける。そしてまた、通用しないとい
う声の中、セリエAでのプレーを実現する。 日本は1998年フランスワールドカップに出場を決めるも、
カズはそのメンバーから外されることになる。
日本代表のユニフォームを着て、ワールドカップの舞台に立つことを一番強く願っていたのがカズであったと思う。日本を世界のレベルに引き上げたのが、カズであることは皆が知って いることであり、本人もそう思っていただろう。それだけに悔しかったことだろう。
しかし、これまでのカズはブラジルに渡る時、ブラジルから帰る時、イタリアでプレーする時、常に 回りに 反対される中、自分を信じて成功をしてきた。逆境をバネにして、やってきた男である。
今回は代表から 外れたが、まだまだこれで終るような男ではない。 カズの帰国会見。「メンバーから外れたことは、絶対に納得してはいけない。」 いい顔をしていた。カズは、死んではいない。夢を追い続けるカズのサッカー人生は、まだまだ 終らない。
–1998/7/10
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